天使の働き

目白5丁目
トップヒルズという名のアパートメントハウス
学生値段のワンルームの半地下で始まった大学生の一人暮らし

上の階の男子学生が夜中に大勢で騒いでチャイムを鳴らしてきたり
(次の日真正面から文句を言いに行ったらそれから挨拶しても無視された)
3階に住む東北訛りのハルミちゃんが急に派手になって水商売に走ったり
(自称弁護士見習いの怪しすぎる男が同居し始めた)
バイト先の一見モテそうな先輩につけられてカーテンの隅から覗かれたり
(そのころまだストーカーという言葉は存在していなかった)
小さな事件がいくつも起きたトップヒルズ時代

ほどなくしてアパートから5分のところにあるミニストップでバイトを始めた
コンビニには名物の常連さんがいてバイトの間で話題になるものだが
その人はどこかしら「ういて」いてコンビニで見かけるようなタイプではなく、ほとんどわたししか注目していなかった
ヒョロっと背の高い白髪まじりの黒縁眼鏡の初老の男性
いつも書類がたくさん入った大きな紙袋をさげている
当時のミニストップはファストフードメニューが多く、その男性はレジカウンターに立つわたしに「わからないのでおすすめを」と頼んできた
それ以来、来店すると挨拶を交わす間柄に

駅からの道のりに目白聖公会という教会があって、わたしはたまに通っては讃美歌を歌ったり聖書の勉強会に参加したりしていた
ある時そこであの初老の男性に出会った
「こんにちは!」
「奇遇ですね。どうですか?お茶でも一杯」

教会の向かいの品のいい喫茶店
聞けば聖書学者とのこと
名は石黒友章さん
大きな紙袋の中には研究資料がつまっていたのだ

その頃、面倒なくらいvulnerableで(傷つきやすく)若者特有の反発心とピュアさが同居していたわたし
他人との距離感や摩擦に日々憂いていた
「どんなに嫌な人でも、こちらの接し方次第でよい部分だけが表れてくれたらいいな、って思います」
すると友章さんの瞳が射貫くように光り、ひと呼吸の後こうおっしゃった
「聡子さん、それをー天使の働きーというのですよ」
「天使に触れられた途端、人の善性がとてつもなく増幅されるのです」
聖書の教えに触れた最初の瞬間だった

それからお茶をご一緒するようなことはなかったけれど、その年の暮れに年賀状を送り合ったことを覚えている

大学2年に上がるとわたしはますますジャズがおもしろくなって生活も変わっていった
音楽的にジャズがつかめなすぎて、文化からまねていったのだ
つまりは先輩と飲むこと!(芸人さんっぽい・・・)
荒れたというほどではないけれど、教会に通うような子ではなくなっていった
友章さんに会わないままバイトも変えてしまった

そんなあるとき、学習院の正門を入ったところで友章さんの姿を見つけた
わたしは瞬間、気付かれないように身を隠していた
自分が薄汚れているような気がして、とてもではないけれど友章さんに見せられる自分ではなかったのだ
相変わらず大きな紙袋を下げ、あきらかに変わり者の風情で学生の間を歩いている友章さん
声をかけられなかった自分、変わってしまった自分への後悔
それはずっと苦い思い出として脳裏に焼き付いている

友章さんに会いたいとずっと思っている
時間はかかったし回り道をしたけれど
今また聖書を読んでいるし
シロアムという聖書由来の名の病院で生まれたことも再発見したし(ヨハネ福音書 9:6)
敬虔なクリスチャンの友人をたくさん持っているし
もう二度と友章さんから身を隠すようなことのない、確固とした核を身につけたし

でも友章さんは―
はじめからわたしにしか見えていなかったのかもしれない
はじめから天使だったのかもしれない
はじめからシロアム(遣わされた者)だったのかもしれない
ずっと見守ってきてくれたのかもしれない
いろんな人を通してわたしに会っているのかもしれない

そう、
大船駅のキオスクで「今日は手が冷えるの」と言って温めてほしそうに手を差し出してきたあのおばちゃんの中にも
ステージの上から見る恍惚として音楽を聴く人々の表情の中にも
人がいくつになっても無垢に愛されたがっているのを見るとたまらなくなる

わたしの手であなたの一日が温まったのなら
わたしの声であなたの一日が潤ったのなら
少しはわたしにも「天使の働き」ができたでしょうか

友章さん

I can’t see you but I know you’re here. Compañero.

Der Himmel über Berlin
トップヒルズ時代
トップヒルズの前で姉と(1995年)